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当店の「Vegan考」と立場

きれいな心で食べる(2018,10/1)

 

ヤフーニュースで、

フランスの精肉店に対するビーガンの襲撃や脅迫が過激化したため、全国1万8000店が加盟している

「フランス食肉専門店・食肉ハムソーセージ専門店・総菜店連盟(CFBCT)」は6月に緊急事態だと表明し、

政府に保護を要請した、というような情報を見ました。

 

なんてことでしょう!

まったくの筋違い!

彼らは、とんでもなく的外れなことをしています。

 

ところで私は、いわゆる“VEGAN”とは違います。

とにかく、動物を食べることができないのです。

アレルギーでもありません。

とにかく、動物は私にとって、『絶対に食べるものではない』のです。

 

幼い時に食卓で肉を勧められ、それが『牛や豚』と聞いて本当に絶句しました。

 

「あの牛や豚を食べる?!」

と、生き動いている動物たちを思い浮かべ、「彼らを食べる・・・!?嫌だー!」

と、その時から、動物を食べることを断固拒否し、親から「わがまま」と言われ続け、

それがきっかけで母子喧嘩が絶えずあり、どんなに父母を苦しめたことでしょう。

 

学校でも毎日、給食の時間は苦しく、お昼休みはみんなが外に遊びに行っても私だけは

肉の入った給食カップとにらめっこして

ほとんど遊ぶことの出来ない、辛い拷問のような毎日でした。

 

担任の先生は、悪いことに栄養学の専門知識があり、食べ物の好き嫌いは絶対に許さず、

お昼休みに食べ終わってなければ、次の授業時間(5時間目)も、肉の入った給食カップとにらめっこして、

授業にも参加させてもらえませんでした。

 

それでも、私にとって肉を食べることの方が、もっと辛いことでした。

 

私にとって、動物の肉は始めから『食べ物』ではなく、口に入れるのさえ耐えられないことだったのです。

 

いわゆるVEGANの方でも、いろいろなタイプの方がおられます。

 

人間たちがただ食べるために動物がひどい環境で飼育され、残酷な方法で殺されているのを知ってショックを受け

VEGANになった=肉食をやめる・・・という純粋で心優しい方が多いと思います。

 

動物保護のため、地球環境のため、世界平和を願って・・・など、

VEGANという生き方を選ぶ

というのは、確かに立派なことだと思います。

 

まして、それまでは肉食が習慣だったわけですから、VEGANになるということは、

ご自身の意志によって習慣を変える、生き方を変えるというわけで、たいていの場合、意志の強さを必要とします。

ですから、立派で、志の高い方が多いのです。

 

でも、時には考えさせられる場合もありました。

 

それは、自分はVEGANである・・・ということで、

よくない意味でのプライドが強くなってしまっているのだな・・・と、感じる瞬間を味わった時です。

そういう時、人は高慢な雰囲気を醸し出し、言動にもそれがでてしまいます。

 

フランスで起こっていることは、そんな延長線上のことではないでしょうか?

 

先日いらしたお客様で、素敵なカップル(ご夫婦?)がいらっしゃいました。

入っていらした時から、謙遜さがにじみ出ていました。

 

まだ、水しか出していないのに、「美味しい~!美味しいねー!」という声が聞こえます。

 

当店は、素粒水に敷地内のいのり畑で採れたホーリーバジルを入れたハーブウォーターをお出ししているのですが、

それが美味しいといって、感激しておられました。

 

そのあと、焼きたてのスペルト小麦の自家製天然酵母パンを見つけて、「これ、先に食べてもいいですか?」

とおっしゃり、さらにスコーンも。

他に、それぞれお食事をオーダーしてくださったのですが、そのお食事を運んでいくと、

「パンも、スコーンも最高に美味しいです!」

と、男性が言ってくださり、

さらにお食事をまた、「美味しいな~、美味しいね~!」など感激の声を上げながら

食べてくださっていました。

 

カフェの内装や建物のことも、「凄くおしゃれですね~」など、いろいろほめてくださったり、

お世辞を言っているという風ではなく、心から感激しての言葉に感じました。

 

お帰りになる時も、「本当に美味しかったです!普段の食事がいかによくないか・・・と、しみじみ思いました。」

など、言っておられましたが、私は

『この方たちは、きれいな心で食べたのだ』と、思いました。

 

たとえVEGANであっても、いいえ、たとえ肉食をしていても

心のあり方こそ、最も大切なことだと思います。

 

スタッフがいない日曜日、たくさんのお客様に、必死でひとり応対して

お食事提供が遅れがちで、お客様に申し訳なく思うと同時に、ちょっと自嘲気味でいた私は、

あの、素敵なお二人によって、心が洗われたような気持ちになりました。

 

人間にとって、食べ物がすべてではありません。

食べ物は、大切にすべきことですが、最上位にすべきとは思いません。

 

最も大切なのは、『愛』だと思っています。

しかも、人間的情愛ではなく、天から注がれる『アガペ』の愛。

 

感謝の心は、尊く、美しいもの。

アガペ(天に存在する永遠の愛)から流れてくるものだと思います。

 

一羽のニワトリの死が、私に教えてくれたこと

 

 私は子どもの時から、動物を食べるのは絶対いやだ!と、学校で給食の落ちこぼれになり、

また「わがままな子だ」と母にいつも叱られ、心配もさせながら、自然にべジタリアンになりました。

 

いつも他人からは「肉を食べられないなんてかわいそうに」と言われてきました。

肉を食べないことは、自分にとって当然で普通の事でしたが、世のほとんどの人は肉を食べているのですから

完全にマイノリティなわけです。

そういう観点からも私の立場は、「私は動物を食べるのは嫌だけど、食べるのも自由。

他人の生き方には干渉しない」

というものでした。

 

でも、音璃をオープンする少し前に、ある出来事で衝撃を受けて、少し考えが変わりました。

 

実はその頃、友人のニワトリのお世話(実際は、餌を上げに行っていた程度)を

週に一度していて、

ある日、いつも他のニワトリにいじめられていた、一羽の茶色のニワトリが、おそらくそのいじめのために倒れこんでいて、

とうとう死んでしまう時に私は遭遇しました。

 

他のニワトリは、小屋に入ると一斉に逃げるのに、そのニワトリだけは何故かいつも逃げずに近寄って来る

という不思議なニワトリでしたから、いつの間にか特別にかわいく感じていました。

 

 ブリジットと名前が付けられていたので、いつも名前を読んでいて、何だか友達のようになっていたのだと思います。

 

死ぬ時も「ブリジットーーー!!!」と、思わず叫び、その後一週間ほど可哀想で、悲しくて、毎日泣いていました。

 

他のニワトリには大きな声で

どうして仲間をいじめるの?!あんたたちがいじめたからブリジットは死にそうなんだよ!

仲間をいじめちゃだめ!悲しいよ。

神様に悔い改めをしなさい!

などと、後で考えるとニワトリにそんなこと言っても・・・苦笑

と、自分でも笑える内容の説教を思わずしました。

 

でもその時、不思議なことが起こったんです。

 

数羽いたほかのニワトリが一斉に、それまで一度も聞いたことのない不思議な声を出し、

叫ぶように、しばらくの間天を見上げながら鳴いたのです。

 

あれは、なんだったのか?はっきりは分かりませんが、私は勝手に、彼らに私の思いが通じ

本当に神様に向かってごめんなさいを言ったのではないか?と、受け止めています。

 

でも・・・ブリジットにどうしていいかも分からず、傷口に酵母くんを垂らしたり、祈ったり、

「ブリジットー!」と、名を呼び続けたけれど、

彼女は死んでしまいました。

 

毎日悲しくて泣いていた時、

たかがニワトリのためにそこまで・・・と、笑われもしましたし、

自分でもなぜこんなに心が痛むのだろう?と考えました。

 

が、魂で気づかされたのは、

動物は人間にとって友達になり得る存在であり、やっぱりそこに「いのち」が息づいている、

そして、たとえ動物であっても、いのちは創造主と繋がっているのだ

というようなことでした。

 

この時の体験は、創造主が私にお与えになったことだと思っています。

 私はキリスト教などの宗教団体には一切属していないし、属するつもりは全くありませんが、

実際、聖書では創造主が動物を、人間の食べ物として創ってはいないことを

知識として知っています。

 

そして・・・この時から、

「私は動物を食べるのは嫌だけど、食べるのも自由。他人の生き方には干渉しない」

という立場から、思いが変わったのです。

 

最も大切なのは、心のあり方です。でも・・・

 

   いのちについて、もう一度考えてみませんか?

  そして・・・できれば友達を食べるのは、もうやめませんか?

  

   音璃の立場は、こんな感じなのです。