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驚くべき【神の国と神の義】の奥義②


「神の国と神の義」はセットになっている。


「神の」というからにはどちらも所有権は「神」である。
所有者に向かって「どうか下さい」と求めなさいと、所有者自身がおっしゃっているわけで、所有者がおられるのは明確なのに「自分たちで追及する」とは?

今思えばお門違いも甚だしくて滑稽な姿であるのに、キリスト教会に関わっていた私は
そのおかしさに気付くことなく、長い間「頑張って」歩んでいた。

また、そのような御国に対する人間の、この世(肉)とのハイブリッド状況についても、イエス様はちゃんと言及しておられる。

「天の御国は、激しく攻められ…激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」マタイ11:12
「誰も彼も無理にでも、これ(神の国)に入ろうとしています」ルカ16:16

なるほど…。
上記の聖書の御言葉は難解な箇所であり、様々な解釈が為されているが、こうして見ると今までのモヤモヤがスッキリする。


さて、「義」も所有権は神である。
「神の義」とは何だろう?

一言で言って、それは「神の国にある(完全な)正しさ」と言える。

おそらくそれは、実は高々と掲げられているはずだ。

どこに?!
どんな風にか?!


モーセを通して詳細に規定された「律法(トーラー)」というものがイスラエル民族にはあったが、それはあくまでも細かな規定=法律、条令のようであり、例えば「憲法」のように一段高い位置にある権威を帯びたものとは違う。
「神の義」と呼ぶには、普遍性に欠けている。

だから、異邦人が救われ始めた時に使徒行伝15:19~にある通り、歴史上、律法はショートカットされている。
いわゆる「礼拝律法」も、(イエスキリストによる犠牲の完成で)祭壇礼拝が不必要となったので、不要になった。


主イエスは磔刑で殺されるまでこの地上で3年半、神の国の福音を述べ伝えられた。

「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて、神を信じなさい。」マタイ4:17・23、マルコ1:15に始まり、「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければいけません。私はそのために遣わされたのですから。」ルカ4:43


主が復活した40日の間も「神の国のことを語った」使徒の働き1:3
…その他たくさんあるが、弟子たちに対する御言葉でも
「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」ルカ9:60
があり、
主が伝えたかったのは何より、“神の国について”だと分かる。

まさに主イエスが、「宣べ伝えるために来た」と言われた「神の国」とは
単なる想像上の世界やファンタジーの国ではない。

簡単に言って、別次元に確かに存在する国、しかも完全な聖なる国、完全なる神が王として支配している「愛と平和の永遠の国」であり、信じ従う者たちがそこで永遠に平和に幸せに生きるため、招いて下さっているユートピアなのだ。

福音書を読めば分かるが、主イエスは徹底的に神の国について語った。

そして、旧約聖書を丹念に読むならば、神はモーセを通して、先に「神の国の義」を顕していた、ということが分かった。

それは、たった十の言葉(※1さとし、あかし、戒め)であり、石の板に神が御自身の指※2で書き記して示しておられた、と言う。(出エジプト24:12、31:18)
また、十の言葉※3だけについて
「この他のことは言われなかった。主はそれを二枚の板に書いて、私に授けられた。」と申命記5:22にあり、他のトーラー(律法)とは一線を画していることはあまりにも明白である。

しかしモーセはその重要極まりない板を、民の偶像崇拝の罪に憤って、なんと!すぐに砕いてしまった。(出エジプト32:19、申命記9:16~17)

なぜ、こんなことが許されたのだろうか?

ありがたいことに 神は、モーセを一切責めることなく再び、石の板に十の言葉を御自身の指で書いて彼に渡した。(出エジプト34:1、申命記10:1~)


これらの霊的理由、根拠はちゃんとある。

それは、契約の板の一度目の破壊はなんと、人間の罪のため、罪の全くない聖いナザレのイエスが、無惨に殺される磔刑を表す預言的型=予兆であり、
二度目こそは、主イエスの磔刑後の「復活」の予兆だからである。

これで気付くことは、神御自身の指で十の言葉が記された契約の板とは、“主イエスのご存在と重なる”ということであり、
「義なるイエス・キリスト」ヨハネ第一の手紙2:1とも一致する。

それだけではない。

その後、預言者エレミヤ・イザヤの時代に、神は契約の石の板を箱ごと隠してしまわれ、聖書の中でそれ(契約の箱)は、ヨハネの黙示録11:19まで一切登場しない。


「それから天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。またいなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」

このヨハネ黙示録11:19で現れる契約の箱は、天の神殿に安置されている、という。

つまり、どんなに頑張っても人間(肉体)が決して、到達できない場所に契約の箱(神の義である契約の板)はあり、
換言するなら霊的な方法でのみ、神の義に到達する、ということを示している。

この意味は、ヨハネ福音書16:10にあるイエス様の御言葉と一致している。
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたはもはやわたしを見なくなるからです。」

また、旧約聖書で預言者エレミヤはこう預言している。

「もしあなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。ー主の御告げー」エレミヤ書29:13~14


イエス・キリストは、肉眼で見ることはできない。
いわゆる「契約の箱(アーク)」も、この地上をいくら探しても見つからないだろう。
亡きロン・ワイヤットがゴルゴダの丘の内部に見つけたという話もあるが、神が確かに「天の神殿の中にある」と証言しているのだから、私たちはそれこそが事実と認めるべきだ。

契約の箱(アーク)の実体、つまり中身だが
それは神ご自身がその指=聖霊によって書き記した「十の言葉」「十のさとし」「あかしの言葉」であり、
それこそが、「神の国の神の義」であり、ナザレのイエスとしてこの地上に現れて下さった神の御子なる方である。

ヨハネ黙示録19:13
「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」

神の言葉のしまい込まれた契約の箱(アーク)は、神が隠したのだ。
肉の力では決して見つけることができないように。

事実、神から霊的に
神の国を頂いた者だけが見つけられるように、神は敢えて隠したのだ。

確かに主イエスを信じること=主イエス(救い、永遠の命)

を見いだすことも、
キリスト教信者になること、キリスト教に改宗する…などという地上の手続き、肉の方法では不可能にされている。
地上の人(ヨハネ黙示録11:10、13:8、13:12、14:6、17:2…etc)には、全く見ることができなくされているのだ。

腹の底から真実に自分の罪を認めて、神の前に本気で悔い改めることができた者だけが、主イエスに出会えることとちょうどそっくりだ。

とは言え、それは入り口であってそこから私たちは、御言葉の通りに神に向かって「神の国とその義を求め」て行く。

すると、約束通り「神の国」が与えられ、「神の義」とは何か?を知ることになっている。

すなわち、天にある神殿に連れて行ってもらえる‼️

私たちは、この地上の者ではなく、まさに「天に住む者」になるために、今ここに存在しているに違いないのだ。

ヨハネ黙示録13章全体、14章1節~を読んで行くと「地上からあがなわれた144,000人」が登場する。

この人たちの額には、「神の印」が付けられているという。